~未来へつなぐ最高の一杯~第10回
アサヒビール執行役員 青木賢吉 吹田工場統括工場長
「気軽で陽気で楽しくて、知らない人同士でも仲良くできる。ビールと笑顔っていうのは合うんですよ」とビールの魅力を話す青木氏。明治22年の操業開始以来、あまたの“うまい!”を生み出してきた、吹田工場の統括工場長だ。アサヒビールへの入社は昭和53年。吹田工場醸造課(当時)へ配属され、飲む側から造る側へ。それを境にお酒の飲み方・楽しみ方は一変したという。
製造の現場に課せられた、高品質で同じ物をつくり続ける使命。しかしビールの原料は麦芽にしろ酵母にしろ水にしろ、すべて自然の産物だ。同一の品質を保つ難しさを知り、毎日が緊張の連続だったという。また、毎日行われる官能検査の際の所作が癖になり、友人と飲む時にも気付かぬうちにグラスを回し香りを確かめていた。「知らなければもっと楽しく飲めるのに、知っているがゆえになんとなく楽しめない。そんな矛盾を感じた事もありましたね」と振り返る。
その当時、涙を流すほど辛かった事もあると言う。
当時のアサヒは苦闘の時代。大日本麦酒からの分割時(昭和24年)に36・1%あった市場シェアは、青木氏が入社した翌年、昭和54年には10・6%と下降の一途をたどっていた。工場の稼働率も落ち、製造ラインが稼働しない日は雑巾とバケツを持ち、現場のオペレーターと一緒に酒販店を回った。
「自販機を掃除させて下さいって行くと、アサヒが来ると店が汚れるって言われたりね。涙がでましたよ」。
笑顔が似合うはずのビールのメーカーで味わう悔しさ。“こんな会社に入ってよかったのか”。大きく心が揺らいだ。そんな青木氏を救ったのは、ビールがもたらす笑顔だった。
「当時富国生命ビルにあったビアガーデンに仲間といったんですよ。すると若い男女が20~30人ぐらいで、大ジョッキを片手に笑顔で飲んでたんです。間違いなく吹田工場のビール。『やっぱりアサヒはうまいビールを造ってるんだ!だってみんな笑顔じゃないか!』って」。“自分が選んだ道は間違いではない”。迷いは吹っ切れた。
「全く知らない人たちが、自分の造ったビールで笑顔になってくれている。それを感じて飲んだ一杯。36年間の中でたった数分の出来事でしたけど、まさに感動。今も心の中にあります」と話すその感動は、入社から36年たった今でも、青木氏の心の支えであり指標の一つだ。
スタイルフリーとクリアアサヒ。この二つは青木氏が酒類研究所長を務めていた時に開発された商品だ。新商品が出ては消えていくなか、多くの人に愛飲され、発泡酒と新ジャンルの基幹商品に育った。開発当時を振り返りこう話す。
「お客様が笑顔になってくれる商品をつくろうと。そう部下に言い切れたのもあの時があったからです」。
青木氏を支えた笑顔をもたらしたあの時のビールが、今も多くの笑顔を生み出している。未来へつなぐ最高の一杯だ。
※全国醸界新聞2013年11月27日号掲載
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