黒ラベル通じた私の財産
丸10年の月日をすごした京都では失敗も山ほどやった。昔、飲食店に生ビールを直接売っていた時、忙しくなる前にと気を使って午前中に飲食店に集金に行くと、「なんやお前は!あほか!」と激怒された。道の角にある酒屋さんでは、入った出入り口と違う出入り口から出ようとすると「入ったところから出て行け!」と怒鳴られる。午前中にお金を出さない。店内を横切らない。そんな商売のゲン担ぎを教えてもらったのも京都だった。
京都を離れて20年以上たって改めて思うのは、ずっと黒ラベルを使い続けてくれている方が多い事だ。関西に戻ってきて京都の夜の街を歩いていた時、私が京都にいた時に開店し、黒ラベルを置いてもらったおでん屋さんの前を通った。入ってみると、そこの親父さんがじっと私の顔を見て一言。「開店した時の担当さんやろ?」。親父さんは誇らしげに「俺ん所は開店してから黒ラベルオンリーや」。ずっと黒ラベルを使い続けてくれて、私のことまで憶えてくれている。
25歳からの10年間、毎日が必死で、嬉しかったこともあれば、失敗が続き会社を辞めてやろうかと思った事もあった。しかし、数は少ないが「サッポロの大屋がいたから」と、いまだに言って下さる方がいる。そういう声を聴くと本当にありがたい。私の大事な財産だ。
その京都を離れる時が来た。一度は一番大きい市場である東京の営業でと希望していたが、転勤先は横浜だった。転勤する1年前(昭和62年)にはスーパードライが発売されていた。希望に胸ふくらませた新天地・横浜では大変な試練が待っていた。 (次号に続く)
※全国醸界新聞2012年4月27日号掲載。
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