お調子者の関西弁にピシャリ
初めての転勤で訪れた京都。当時(昭和53年)私は25歳で、初めて新潟を離れた田舎者。文化の違いに圧倒されたが、一方で何もわからないからこそ、がむしゃらに営業が出来たのかもしれない。
京都の事業所がまだ大阪支店管轄の京都営業所だった時で(翌年支店に昇格)、市場にはサッポロビールがほとんどないに等しい状態。業務用は特にそうだった。
びん生(後の黒ラベル)とヱビスビールを徹底して案内しようと、ひたすら飲食店をまわった。私は一考して、中びん2本にアンケートはがきを付けて配るようにした。京都支店の全員で随分と繰り返してやって、業務用のつながりが少しずつ出来ていった。
シェアが低かっただけに失うものは何もなかった。百件回ればそのうちの数件でも「旨かったから半分使ってやろう」と反応が返ってくる。「やれば何とか出来るんだ」。そういう思いがどんどん強くなっていった。
当時の私は無理をして関西弁を使おうとするお調子者だった。そんな私を諌めてくれた人がいた。京都に来た当初、2年ほど担当していた北区の酒屋の奥さんだ。「あんた無理して京都弁つかわへん方がええよ」と言われ、下手な関西弁で「ええっ!何でですのん?」と聞き返すと「かえって聞き苦しい」とピシャリ。「あんた新潟の人間なんやから新潟弁でええやないの」。言われて納得した。
昨日今日京都へ来たばかりの人間が言葉だけで溶けこもうと思っても無理なんだ。溶け込もうとする努力というのは、言葉ではなくて、日常の行動や思いなんだと。未だにその酒屋さんには感謝している。(次号に続く)
※全国醸界新聞2012年4月12日号掲載。
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