びん生誕生「少しは売れるかな」
入社は昭和47年。商業高校を卒業後、当時の新潟支店での地元採用だった。内勤業務だったが机に座っているのが嫌で、いつも社内をうろついている私を見かねた上司が「じっとしているのが嫌なら営業をやれ」。言われて営業畑へ飛び込んだものの、新潟県はシェアも高く、先輩達の培ってきた得意先を維持するのが大変だった。
営業職にも慣れてきたころ、試験を受けてみないかと言われ軽い気持ちで受け合格したが、それは総合職の採用試験だった。全国転勤を承諾したのと同じだと気付いた時には後の祭りだった。
転勤を言い渡されると父が会社にきて「何年で帰すんだ!」と詰め寄った。実家は農家で私は長男。父は「百姓に学問は要らん。中学を出たらすぐに農業をやれ」という昔ながらの人。何とか説得して商業高校に進学させてもらい、地元採用なので転勤がないという条件で入社を認めてもらった経緯があったからだ。
ただ私には転勤してしまえば父の考えも変わるだろうとの思惑もあった。当時課長だった富川さん(富川隆夫氏、後に専務執行役員)が「2~3年で帰しますから」と父親を説得。転勤が決まったが、転勤先の京都では結局10年の月日を過ごすこととなった。
「びん生」(現在の黒ラベル)が全国発売されたのは、京都へ行く一年ほど前(昭和52年)。生ビールは夏の物といったイメージが根強く、瓶に詰めた生ビールという商品もそんなに浸透していない時代。当時は「少しは売れるかな」といった程度の感覚で、その商品が将来の基幹ブランドになるとは思ってもいなかった。 (次号に続く)
※全国醸界新聞2012年3月27日号掲載。
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