サッポロビール文化広報顧問・ヱビスビール記念館館長 端田晶氏に聞く⑤
「醸-かもす-」2015年5月号掲載
いまの日本では、商品として出回っているお酒なら世界中のものが大体は手に入ります。お酒だけじゃないですね。料理もそうだし着るものもそうだし、もうよりどりみどり。大好きでしょうがないんですよね。
島国っていうのは、常に外来文化と自分たちの文化を組み合わせて新しいものを生み出していくということが、基本的な構造としてあるんです。聖徳太子が仏教を持ってきました、足利義満が勘合貿易をやりました、織田信長がバテレンの宣教師からワインを飲ませてもらって喜んだ。みんな同じなんですね。
外来したものから刺激を受けて、どう日本の文化に溶け込ませるかという、そういった意識がずっとあって、明治以降はそうしないと欧米の植民地にされるという危機感も背負うことになったんです。
当時の欧米はアジアに対して、表面的には「君たちは文明化してないから教育してあげよう」という理屈をつけて、実際には植民地にして経済的に搾取してるんです。日本人はその理屈をまともに受けて、「なるほど、自分たちが文明人であれば彼らは侵略してこないんだ」ということで、鹿鳴館外交とか変なことになって、ドレスや燕尾服を着てダンスするわけですよ。
普通の日本人からは馬鹿にされるんですよ。「似合もしないのに何やってんだ」って。でもやってる人たちは、文明人であることを見せないと、欧米が牙をむいて襲ってくるかもしれないと必死でやってるんですよ。
黒田清隆(第3代開拓長官として北海道開拓を指揮。のち第2代総理大臣)が北海道開拓でビールとワインをつくろうとしたのもそれが理由なんです。
黒田清隆は外交の現場にいた人で、ロシアも相手にしているし、アメリカに行ってケプロンとか、ユリシーズ・グラント(第18代大統領)にも会ってきてるわけです。
そういう現場にいたので、日本で外交の現場を見た時に、そういう場に出るビールやワインが外国製のものだったらあの国は借り物の文明国だと言われる、それは危険だと察知するんですね。だから北海道開拓使でビール醸造所とワイン醸造所を並んで建てる。
でもこれは明らかにバカな事なんですよ(笑)。
当時の常識では、ヨーロッパの北はスピリッツベルト、真ん中はビアベルト、地中海側はワインベルトと、気候の違いでお酒は違うものだっていう大前提があったんです。それを、同じ気候の場所で同じ敷地に隣あってビールとワインの醸造所を建てたっていうのは、いかに焦っていたかということです。
現実にはもちろん無理をしたわけじゃなくて、北海道にはアムレンシス系の山葡萄があるからそれでぶどう酒をつくろうとか、筋は通っててずれてないんですけど、発想としてはとにかく焦っていた。とにかくビールやワインを作って外国に見せておかないと、文明国らしく見えないということだったんだと思うんですよね。
そういった感覚もあって、明治以降はビールでもリキュールでもウイスキーでも、何でも取り入れてきた。でも、無理やりにでも日本人向けにアレンジして何とかしてしまおうというのは、もう粗方済んだと思います。
外国から人も来ますし我々も行きます。ネットで何でも調べることもできます。情報が少ない時はなんでも日本流にアレンジしてそれで済んでしまいますが、今だったらそんなのオカシイだろという人が必ず出てきますから。
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